昭和45年2月4日 朝の御理解
御理解第二十八節 「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。」
「一心に壮健(まめ)で繁盛するよう元気な心で信心せよ」と。願うところは、壮健(まめ)で繁盛するよう願わなければならない。それには、「元気な心で信心せよ」と言うておられる。これは、誰しもが、ここんところを思わない者はありますまいね。壮健(まめ)で繁盛するようにと。壮健(まめ)で繁盛することを願う。しかも、元気な心で願うていく。
ですから、これは、途中では止められんということになる。井戸は清水になる迄と、病気災難は根の切れる迄、途中で止めれば、いつ迄も、水は濁っておるようなもんだと。
いわゆる、それでは、いつ迄も、壮健(まめ)で繁盛するようなおかげは受けられんということになる。壮健(まめ)で繁盛するようには頂きたいけれども、信心を一心に続けていくことはなかなか出来んと、まあ、それが普通ですね。信心もよかばってん、とても、なかなか私どん続かんと、こう言う。なかなか、二つよいことはありませんね。
そこで、思うことですけれども、信心が好きにならなければならない。おかげが好きになるとじゃないですよ、信心が好きになるとですよ(笑)。おかげ嫌いちゅう者(もん)はおらんです。おかげは好きじゃけど、信心はあんまり一生懸命やろうごとない、と。
信心そのものが好きにならなきゃなりません。合楽の方達は、大体信心が好きになるタイプですよね。大体、惚れっぽいです。私が、そういう性格ですから、やはり合楽の方はそういうようなひとつの性情というものを持ってます。
ですから、もうひと押し、もうちっと、好きになると井戸は清水になる迄のおかげが受けられる。しかも、壮健(まめ)で繁盛するように、願うではなしに、そういうおかげが受けられるようになるのですけれども、なかなか惜しいところがありますね。
それも私が思うのには、最近、私の信心が、もうちっと釈然としないからだ。私の信心が、もっとスッキリしたものになれば、皆んなが、いよいよ本当に好きになる。もう本当に命までもというようになるだろうけれども、どうも取次がせて頂く私自身が、そこのところを釈然としないからだというふうに、まあ感じるのです。
昨日、一昨日でしたかね、「大地の内において、金乃神の大徳に漏るるところはなきことぞ。」という、御理解を頂きました。昨日、一昨日でしたね。
特にこの事は申しませんでしたけれど、金乃神というところが、まあ他にも金乃神という出てますね、天地金乃神ということを、天地を<只、金乃神>
教学者の方達は、ここの金乃神というところがどういうような意味で使ってあるのか、どういうようなものか、非常に追求されるらしい。いろいろな説が出ております。
金乃神というのは天と地を兼ね合わせたとか、いや金乃神とは、やはり天地、人を表したものであろうとか、まあ様々に教学されとりますところですよね。
けれども、そういうことは、あんまり、詮索する必要はないと思うのですけれども、やはり金乃神と、こう出て来るもんですから、私もやっぱりここの御理解を、このみ教えをとかしてもらう時に、金乃神ということが、一寸ここに引っ掛かったんですよ。
そしたら、神様から頂きますことがね、[姓は天地、名は金乃神]と頂きました。姓は天地、名は金乃神。もう本当にですね、もう一言(いちごん)で決まる。なるほど、詮索することはいらん。姓は天地、名は金乃神である。私はそのことを伝えてなかったから、昼から参って来る方達に、皆んなその話をさせて頂いたんですよ。「あら、まあ」と言うてから、皆んな涙を流さんばかりに、喜ばれる。そのことを聞いてから・・・・。
そのことを、日頃求め続けておった訳でもない、もう皆んな信心が好きな人です、そんな人は。今日ね、私は、皆さんに伝えはしなかったけどね、金乃神ということが、一寸引っ掛かったんだ、私は。そしたら、神様からね、こう頂いた。[姓は天地、名は金乃神]と頂いた。まあ、それを手帳に控えながらね、それこそ涙を流さんばかりに、涙を流してですね、もう神様の本当に何というか、もう神様の智恵というか、神様の教えて下さることというか、いわば、御教の御理解の素晴らしさというか、もし、これが信心が好きでない人、又は、信心の無い人が聞いたって、へんてつもないことですよねえ。
ところが、信心が好きな人、いわば、金光様の御信心が好きな人はですねえ、本当に好きな人がそれを聞いたら、本当に涙が流れるほど有り難い。そのことが分かるから有り難いのじゃないです。信心がね、それが血になるとか、肉になるとか、それが、おかげ頂くとか、このことが分かったから、これでおかげ頂くぞといったようなもんじゃないとですよ。そん位のこつじゃない、それが分かったからっていったって。
けれどもね、信心が好きだからね、それが、「まあ」と言うことになってくるのです。しかも涙が流れるほど感じるのです、その事を。
私は、本当に合楽で皆さんが信心が段々好きになっておいでられるのは、その御理解にあると思うのです。その御理解を頂くことの楽しみがです、段々、信心が好きになっていく、いわゆる、おかげが好きということではなくてです、お話を頂くということが、楽しゅうなってくる。
それで、それを生活の上に行じていくということになってくる時、いよいよ有り難いことになってくるんですけれども、今日、ここの御理解二十八節を頂いておりますとです、病気災難の続く人が、神のおかげを受けるのは井戸替をするのに、八分、九分で退屈して止めれば掃除は出来ん。やはり、水は濁っておるようなもんだと。だから、清水になる迄という事を貫く程しのことはですね、やはり難しいですね。中途半端が好きではやはり出来ないということです。
だから、もうひとつ、それに輪をかけての好きにならなければならないということが分かります。又、好きこそものの上手なれですね。好きにならなければ信心も上達しませんものね。
そこで、やはり好きになる稽古ということ。まず、御教を頂く楽しさとか、喜ばしさと、それで平穏無事ならですね、本当に言うことはないのですけれども、そういう楽しい、または有り難い、嬉しい、お参りもさせてもらい、しておりますけれどもです、さあ汲み上げれども汲み上げれども、濁った水が出てくる、瓦が上がってくる、いわば、匂いのするような段々底に近づくことになってくるとです、いわゆる、ごみ、あくたのようなのが、上がってくる。
その頃が、一番大事なのですけれども、信心がね、好きではあるけれども、そこ迄徹底して好きになってないところから、止めたり、又は、ひと息ついたりするのじゃないでしょうかね。それで、又、水はずうっともとんごとなってしまうから、又初めから汲み直さんならんといったような結果に、いうならそうゆう堂々まわりの信心というか、そういうところに、まあ、根拠があるという訳ですね。
清水になる迄のおかげを受けられない。それでもやはり、壮健(まめ)で元気で繁盛するようにです、元気な心で信心する、またその事を願うと。
昨日、四時の御祈念終わってからでしたか、四時の御祈念の前でしたか、午後からの奉仕を仕えさせて頂いておる時に、丁度、末永さんがお届けに出て参りましてね、お届けをするんです。
「今朝方、ありありと、あんまりありありとお夢を頂いたから」と言うて、お届けをする。『二匹の兎を一緒にこうかかえておる、かわいらしい兎。普通、二兎を追う者、一兎も得ずと言うけれどもね。末永さんの場合は両方ながら、こう(笑)。けれども、次には、それこそ、八万藪のようにですね、化物屋敷のように、竹藪があるらしいんですね。そこん中へ、それでもやっぱ首突っ込んで中さ行ったら、中には、まあいっぱいアワビがなっておる。
アワビ、あれは海にしか無いもんです。けれども、お夢の中では、藪の中にいっぱいアワビがある。そのアワビを取っては食べ、取っては食べしておるお夢であったと。』
私はそれで申しました。「信心はね、一途でなからないけないよ」と。例えば先日、「あんたは、こんなことを言いよったろうが」と言うて、「私は先生、どうでも両親は私がみたいと思います」と、こう言う。
「だから、それは本当に、素晴らしいことだ。兄さん達が、何人もおるけれども、弟の自分が・・・。けれども、まあだ自分がこれから先、どうなるやら分からんとに、みるのみらんのって。そういう事を言うことはね、私の流儀で言うといけないことだ」と。「それでもね、みらなければならん時には、いつでもどうぞという、それは必要だけれども、私がみる、俺がみてやるといったようなね。果たして、あんたとこのお父さんがね、それを喜ばれるだろうかと。三番目の弟に掛かっていくということを喜ばれるだろうか」と。「同時に、お取次者として何十年間御用してみえられたお方ですから、とても子供達に掛かっていくなんて、夢思いもしなさるまい。あんたは、親孝行の一心からそげん言いよろうけれど、そういうことはいけないことだ」と。
「親もみらんならん、神様もみらんならん、そげなこつで出来るはずはなかよて、取次者ちゅう者は。場合によったら、親はもうかつえ死にするんかもしれんよ、例えば。」唯、神様一途、神様一心でなからにゃいけん、そうして、あんたがみるのじゃない、いよいよというか、それがよいならばです、神様が親孝行はさせて下さるのであり、見させて下さるのである。
「これは、その事だけじゃないよ、一事が万事にそうなんだ。あれも追い、これも追う、それでおかげの頂けるはずはなか」絶対一途なものでなけりゃ、信心はいけん、神様一心、神様一本なんだ。
そこから、例えていうならば、私のいつも申しますように、家内も愛し続けていくことが出来る、親も大事にさせて頂《く》ことが出来るという。家内のいうことも聞かんならん、親の言う事も聞かんならん、そして、神様の言う事も聞かんならん、そういうことではね、おかげが受けられんのです。神様の言う事さえ聞いていきよりゃ、家内の言う事〔も〕聞くことにもなりゃ、親の思いにも添うていくことが出来るのが信心なんだと。あっちにもよかごつ、こっちにもよかごつというようなことでは、信心は出来んよと。
その事だけじゃない、私はこの頃、あんたがその事をお届けした時に、そん時言おうかと思うたばってん、折角、「親は私がみる」と言うて、あんたが一生懸命思うとるから、言わなかったけれど、やはり、神様は、こうしてね、そこんにきを、だから、親不幸せろというのじゃないよ、あんたが親をみる以上のみかたが出来るおかげを頂くためなんだからと言うて、お話をしたことです。
好きになるとね、そういうことになってくるんです。だから本当に、信心が好きにならなければならん。ところが、合楽ではね、あんたが、お夢の中で頂いておるように、それこそ、神様に片思いをさせておる人が、どの位あるか分からない。アワビということは、磯のアワビの片思いと言う<じゃない>。神様が、はあこの氏子はと、この信者は、ものになるぞと、まあ、期待をかけられたかと思うと、さっさと向こうの方からはずれていく、打ち込んでこない。いつも神様に、磯のアワビの片思いをさせておる信者がどの位多いか分からない。
あんたは、まあまあ、藪の中にでも頭を突っ込んでから、アワビを頂きよるというのだから、おかげ頂いとるごたるけれど、信心ていうのは、それこそ、秋永先生が昔言いよんなさったように、親先生が言われることが、それが地獄道によしつながっておってもです、さらさら、いとわん。親先生が言われることが地獄道につながっておっても、さらさら、いとわん。これが信心になからなければいけんのだと。
それにはです、それこそ好いて好かれた、ということにならなければ、やってはゆけんのだ。
『今朝、私、ある人達が、もう雪の荒野ですよね、ず~っと、もう道も分からん位です。そこをですね、好き合うた男女の人がね、それこそ肩を組み合うようにしてですね、行っておるのです。道も無い所、しかも、どこ迄続くやら分からないような雪の原をですね。それでも、二人はもう熱う、熱うして、もうどこ迄もこのままでいいと思うて行きよる。
信心には、私は、そういうものが必要だ。道〔の〕無い所を道をつけて、それでも、寒いも暑も感じんで行けれるためには、やはり信心が好きにならなければならないということ。
そこで、そんなら、ここではです、何と言うですかね。飛び付いて来る者は、ここの御理解、御教、そして、一時少し好きになる訳です。素晴らしい素晴らしいと。
姓は天地、名は金乃神、聞いただけで涙が流れるほどある。有り難い。それを、頂いたからというて血にも肉にもなるのでもなからなければ、おかげを受けるということでもないのだけどもです、段々御理解の有り難さというか、それの教えを受けていく楽しさが出てくると、そのように有り難うなってくる。
素晴らしい、神様の智恵をもってすると一言で決まってしまう。ねえ、教学者の方達が、それこそ何年掛かったっちゃ究明出来ないことが、神様の一言で解決する。
その程度にはですね、合楽の人達は皆んな好きになっておられる筈です。けども、もう一押しのところで、いわば七分目、八分目までいっとるところです、いわば、泥水が上がってきたり、あくたが上がってきたりするところからです、御理解頂くと、御理解もなる程と思うけれども、有り難いけれども、その辺からどっこい信心がぐづつく、一服する、又は、はずれていく。とうとう清水になる迄のところに頂ききらずに、おかげを頂いておる。
ですから、合楽の人達は、ほんとに惜しいですよね。それで私は、昨日末永さんのお夢の事を聞かせて頂いてその八万藪のようにしておる、その藪のその事が、合楽の状態であろう私の信心の状態だろうと私は思うた。
中から化物が出て来るかも分からん、というような状態が、私の信心の状態だから、皆んながそこへ飛び込んで来きらんのだと、入って来きらんのだなあと。神様に、いわば片思いをさせるような元は、私自信にあるなあと、末永さんにその事を話したことですけれどもです、ところが、私も一生懸命、精進しているけれども、この位。
勿論、これで良いとは思うておりません。それこそ、もっともっとスッキリした、皆さんが、本当に先生《の》言われる事が、地獄道につながっておっても、よし、いとわんとゆう位な思いをなさるところまでです、私の信心も高めていきたい。藪のところを、もう少しスッキリしていきたい。こんなら飛び込んで行ってもいい、入って行ってもいいというようなものにしていきたい。
そして神様の思いと皆さんの思いがです、いわゆる片思いではない、いわゆる思いが成就する、思いが叶うていく、ねえ。神様の願いが氏子の上に表れ、氏子の願いが神様の上に表れるようなおかげになっていかなければ、ならんのでございますけれども、只今申しますように、私の信心がまあだ藪のようなところのもんですから、皆さんがそこを、ほんとにフンギリがつけにくいのじゃなかろうかと思います。
昨日、昨日は節分でしたかね。私は昨日、食堂へ行きましたら、「ああそんなら今日は東京から葉書がこんならんはずじゃがね」と(笑)私が申しましたら、「いや、来とりますよ」ち。向こう方に落ち込んどる。
毎年、節分の日に葉書が来るんです、東京の双葉という寿司屋さん〔から〕。これは、久保山稔さんが勤めておった銀座のお店です。そこのおやじさんから毎年、必ず節分の日に届くように、年賀状のかわりでしょうね、年賀状は来ません。
けれども、葉書いっぱいにね、鬼の面とお多福さんの面とをこう合わせた絵がついとりましてね、それにね、福は内、鬼は外と書いてからくるんです。
私、毎年のことですから、覚えているんです。「東京から来んならん筈じゃがね」ち言うたら、「来とりしたよ」ち言うて捜しよる。向こうに落ち込んどった。今年のは、「福は内福は内、鬼は外」と、二つ福は内を書いちゃった。
福は内と言や、いわゆる豆まきですね。いわゆる「壮健(まめ)で繁盛するよう、元気な心で信心せよ」と。これが、私は、節分の豆まきの精神だろうと、こう思います。まめということは、元気ということだろうと思います。そして、福は内、福は内のおかげを、いわゆる家繁盛のおかげを頂きたいというのが願いだろうと思います。
だから、いかに誰もが昔から、しかもまめで福は内であるということを願い続けてきたか、もうこれは人間であるそれこそ人類の夢である、全人類の。健康でありたい、そして福は内、福は内ということがどの位、皆んなの願いであるか分からない。
それにはです、そういうおかげの頂けれるような状態にならなければいけんじゃない。豆を蒔いたから、福は内、福は内、鬼は外、鬼は外と言うて豆を蒔いたから、壮健(まめ)でそして繁盛するということではない。壮健(まめ)で繁盛するおかげを頂く為にはです、本当のことを言うたら、信心によらなければ出来ることではない。しかも、その信心でも、中途半端の信心では、それは、おかげを受けた、おかげを落としたというておる間の信心から、又の御教えに、「信心して変わったことが起きてきたら、おかげと心得て信心せよ」というようなところが、本当に分からな〔きゃいかん〕。
信心しておって起きてきたのであるか、お願いをしておってから、日々、お取次を頂いてから、このような事が起きてくるのであるから、これは神様の御都合に違いはないんだと。いや今こそ、瓦が出ておるところだ、泥水がどんどん出ておるところだと思うたら、そのことに対して、お礼を申し上げなければおられないことになってくる。
だから、そのことに対して、お礼が申し上げれるということ。私はそこ迄、信心がですね、一途なものに変わってこなければ、この御理解二十八節は分からんのじゃいか、本当のおかげにならないんじゃないかと、こう思います。
それにはまず、信心が好きにならなきゃならん。だから、それは人間いわば、人類の夢であり願いである。元気でありたい、家の中が繁盛のおかげを頂きたい。福は内福は内ということなんです。だから、そういう願いをです、実現させて下さることのために、金光大神が出現なさったというて過言じゃないのです。
他の宗旨宗派では、そのような教えをしておるところはありません。「壮健(まめ)で繁盛するよう、元気な心で信心せよ」なんていう、御教えを聞いたことがありません。病気の時には頼む、貧乏しよる時には金のお繰り合わせを願う、といったようなことはあるに致しましてもです、それ《を》いついつ迄もの繁盛になっていくことを元気な心で願い、そして信心せよと、いうふうに教えておるのは、私は、金光大神だけだと思う。
それにはです、いわゆる井戸替をするにという、理を分からしてもらわねばならんから、そういう井戸替をする時に、しるしいしるしい、苦しい苦しいで通るのではなくて、好きになればです、そこんところもまた、楽しい。雪の草原も、好きな者同士なら道もないのに、道を作ってでも行くことが楽しいようなものなんだ。
そういう例えば、素晴らしい道を教えて下さるのが金光大神、それをお取次させて頂いておるのが私。ところが、ここに私がです、神様を、片思いにさせておるような状態にあるということは、誠に神様に対して相済まんのだけれど。
けれども、私は例えば、末永さんが藪の中でもやはり、首突っ込んで中に入っていくようにです、中から、化物が出てくるかも分からん。そこんところをです、私は頂いていくことがです、私は度胸が出来ることじゃなかろうかと、こう思うです。
そして、怖いと思うておったことは、怖いものではなくて神様が力をつけて下さろうとすることのための、御神意であった、御都合であったと、分からして頂くところに、私は信心度胸が出来、力が出来る。その力が有り難い。
してみると、私がまあだ、藪のような時代の方が、本当は力が受けられるんだということになるのです。そうじゃないでしょうか。
私が、もっともっと立派になって、高度の信心が出来て、誰でも疑うことなしに、す-っと中に入って来られるようになったらです、本当言うたら、おかげが受けられんのじゃないだろうか。そんなに簡単に、いわば壮健(まめ)で繁盛するようなおかげが頂けるとは思われません。そこの力、そこの度胸を作ってこそです。だからこそ、ここに、元気な心でと言うておられます。壮健(まめ)で繁盛するよう、元気な心で信心せよ。
私は、ここではいわば、御理解に接する、御教を頂くということがです、確かに好きになるきっかけを作りますね、必ず。
だから、それだけではいけんです。教えだけじゃなくて、その教を本当に行じるというところからです、最近私が申しておりますように、教祖の神様の教えて下さることもです、実践者、それを行じていく人、実践者であると同時に、実証者たれと、私が申しております。
金光様が教えて下さることは、事実、そうだと、こういうおかげが受けられるんだと、自分の身をもって、あかしを立ててゆけとゆう訳なんです。
ですから、その実践するということはです、私はこの、ご体から打ち込んでゆかなければ、駄目だと。
善導寺の久保山のお母さんじゃないですけれども、「隣に原さんのところに自動車がでけたから、自動車に乗ってくれと言われるから乗っても来る。けれども、たまにはね、たまには歩かなければ昔の事が忘れてしまう。たまにはでなければ、本当の有り難さに触れられない」と言うて、やっぱり善導寺から、真っ暗い道を歩いてお参りをして来られる。そこにです、ご体から入ってくる信心。
金光様の修行生は足袋をはきません、冬でも。寒さ暑さの中に、その中から私はしみじみとした神様をご体で頂いていくという、それが表行なんです。
同時に、御教を頂いて好きになっていくという、それとこれとが、ひとつになっていくところからです、一途な信心修行、一途な思いがそこから出来てきて、いわゆる好いて好かれて、ということになってくるんじゃないだろうか。
本当の好きになる、どういう困難も辞せない、そういう私は信心。そういう信心を身につけてこそ、初めてです、壮健(まめ)で繁盛するようなおかげが頂けるんじゃないだろうか、井戸は清水になる迄のおかげが頂けれるんだと、私は思うのです。
どうぞ、まず何というてもです、信心《を》本当に好きにならなければなりません。好きになる工夫はまだ他にもいろいろありましょう。いろいろと工夫してみなけりゃいけませんね。どうぞ。